第12回 等々力渓谷の秋を満喫しよう!散策コース

 ◆日程    11月14日(水) この日は、朝から快晴、温度は17度まさに散策日和でした。

 ◆集合場所  東急大井町線等々力駅

 ◆散策コース 等々力駅⇒逆川の碑⇒等々力渓谷(ゴルフ橋)⇒野毛大塚古墳⇒3号横穴⇒稚児大師堂⇒日本庭不動の滝⇒

       等々力不動尊⇒御岳山古墳⇒狐塚古墳⇒傳乗寺⇒八幡塚古墳⇒九品仏駅   解散                         

                            *オプション 浄真寺

 等々力駅の路地から大通りを左に曲がり進み信号を渡ると郵便ポストがあります。その横に「逆川」と書いた碑があります。これは等々力渓谷を流れる谷沢川が逆流したことを示すものです。

 横断歩道を渡り大木のある成城石井の横を進みます。左手の小さな「広場」にあります温度計の地上と渓谷内の温度差は1度でした。

 谷沢川が逆流したのは、直角に曲がったのが原因とされていますが「ゴルフ橋」の上からそれを確認できます。

 「等々力渓谷入口」の階段に一歩下りるとそこはもう都会の喧騒から離れた自然の世界。紅葉を期待したのですが、見事に裏切られました。今年は、台風の影響による塩害と暖秋で良くないとは聞いていましたが、淡い期待をしていたのですが駄目でした。気を取り直して進みました。

 階段を下り後ろを振り向くと真っ赤なゴルフ橋が見えます。名前の由来は、昭和の初めに旧下野毛にゴルフ場があったことに由来しています。当時は、軍事国家であり庶民の服装は着物姿であった時代にゴルフ場とは・・・・・との思いになりました。

 等々力渓谷は、武蔵野台地の南端を大きく開折して形づくられています。渓谷は、東南方向に流れる谷沢川が南へ向きを変えて流れるところから始まり、台地は切れる多摩川の氾濫原に至る手前までの約650mの区間です。

  谷沢川はこのように渓谷内を南に流れ、多摩川へ流入します。しかし、元はその東にある九品仏の谷底地を流れる九品仏川の一部でした。南にある不動滝付近に始まった地下浸透水の谷頭浸食により、少しずつ北に向かって浸食が進み、ついに九品仏川まで達した結果、九品仏川を横取りして谷沢川となり更にそれが渓谷を形成したそうです。

  谷沢川の流れに沿って歩きますが、道幅は人がすれ違うのがやっとの狭さに加え、すのこが敷つめられ大変不安定です。途中から石の道に替りますが、狭さは変わりません。透明度の高い川の流れや鬱蒼たる樹林に気を取られ、足元が不十分にならないよう注意してください。

  途中で小さな橋を渡り川の右を歩きます。すると右側の土の所に湧水が湧いているのが見えます。この湧水は谷沢川に流れ込んでいるのです。また、谷沢川の底が幾つもに変化しています。

 環状8号線のガードを潜り暫くしましと右手に野毛大塚古墳の表示された階段を上がります。この階段は100段もあり、しかも急、上がり切った時は息が上がっていました。突き当りを右に、バス通りを左に、1つ目の信号を左に曲がると「玉川野毛公園」です。その奥に「野毛大塚古墳」があります。

  「野毛大塚古墳」は、現在の大田区から世田谷区に展開する「荏原台古墳群」のひとつ、野毛古墳群の中の中心となる五世紀初頭に築かれた大型の帆立貝形古墳です。帆立貝形古墳とは、前方後円墳の前方部が小さくなり、上から見たときに帆立貝のような形に見える古墳を言います。

  古墳の規模は周濠を含め全長104メートル、墳丘長82メートル、後円部直径67メートル、高さ10メートルで、 同種の古墳としては最大級の規模を誇っています。墳丘からは、4基の埋葬施設が確認され、多くの武具や玉類などが発見さています。

 桜の大木の横の階段を昇っててっぺんから見ると帆立貝形の古墳であることが良くわかります。また、大きな石の上に描かれた『埋蔵施設と副葬品の図』からは、4基の埋葬施設の何処に何が埋蔵されていたかが判ります。

多摩川下流左岸には、世田谷区野毛周辺から大田区田園調布に広がる古墳群で50基あまりの古墳があしました。 この古墳群は、世田谷区側を「野毛古墳群」、大田区側を「田園調布古墳群」と呼び、合せて「荏原台古墳群」と呼ばれています。

この一帯は、多摩川という水資源と広大で肥沃な平地を利用した弥生時代以来の生産性高い農耕社会を背景とする、強力な首長の治める政治的集団が存在したと考えられる。そして古墳時代を通じてこの地域が、その首長と一族の墓地として利用されていたのであります。

古墳の基本形には、円墳、方墳、八角墳、双方中円墳、上円下方墳、双方中方墳、帆立貝形古墳などの種類があり、山が二つある古墳では、前方後円墳、前方後方墳、双円墳、双方墳などがある。 

 再び等々力渓谷に戻ります。階段の少しに左にあります木製の橋を渡ると広場です。広場には「等々力渓谷公園」を説明したプレートと1971年ごろの渓谷図がありますので、一読してください。

 この日は、保育園の子供たちが散歩に来たのでしょう。広場を元気よく駆け回っていました。

 広場を横切り、「公園で見られる野鳥」の看板の前を通って階段を昇ると「等々力渓谷3号横穴」があります。入り口がガラス張りになっていますので是非中を覗いて、横穴簿の絵図と大きさを比較してみてください。奥に進みますと1号横穴跡、2号横穴跡があります。

 渓谷の東側崖面では、古墳時代末期から奈良時代にかけて造られた横穴墓が六基以上発見されています。中でも昭和48年(1973年)に発見された三号横穴は、典型的な横穴墓の形態をとどめていて埋葬人骨や副埋葬品も良好であったことから保存されています。

 また橋まで戻り、左に曲がって川沿いに歩きますと「稚児大師堂」に出ます。その橋の袂では、秋空に誘われてきたのでしょうか、数人の御婦人方が写生をしていました。稚児大師は弘法大師が幼い時の呼び名で、堂の中には稚児大師像が設置されています。また、立札には弘法大師が創設した大学のことが書かれています。

  遊歩道に出て右に曲がりますと、間もなく右手に急な階段が見えます。ここを登って「日本庭園」入口をはいりますと、芝生が広がっています。高台から東を見ますと、ランドマークが遠くに見えます。広場を横切り階段を降りると「書院」です。この書院は、1961年に造られそのまま保存されています。室内には、等々力渓谷の今昔がパネルで展示され興味深いです。セルフサービスのお茶も用意されていますので、休憩しては如何ですか?

  書院は、昭和36年(1961年)に建設され、日本庭園は昭和48年(1973年)に著名な造園家により作庭されもので当時のままの姿で保存されています。

 ここからは下りになります。階段の両側には甘夏ミカンなどの熟した柑橘系がたわわになっていました。見惚れて階段を踏み外さないように注意してください。階段を下ると今度は竹林に変ります。

写真:左から「稚児大使」「書院」「等々力渓谷の歴史」「甘夏ミカン」「冠木門」です。

 冠木門を出て左に見える「利剣の橋」を渡りますと正面に「不動の滝」左側に「稲荷堂」があります。

 不動の瀧の龍の口から湧水が流れ落ちています。今では絹の糸程の水量だが、かつてはこの10倍もの量が流れ落ちていたと言います。そもそも等々力の名称は、この滝の大きな音が周辺に轟いていたのが原因とされてます。湧水が途絶えることは無いそうで、今での滝に打たれた修行する人は絶えないと言われています。

 急な階段を昇ると「等々力不動尊」に出ます。途中に役の行者の「神變窟」と刻まれた石碑の横に小さなお堂と洞窟があります。等々力不動尊は、平安時代の末(1100年ごろ)に真言中興の祖、興教大師覚鍰上人が開いた霊場である。お不動様が祀られた「明王院本殿」「明王院大師堂」そして休憩所があります。日本庭園で休憩しなかった方はここでコーヒーなど如何ですか? 

 渓谷の入り口と途中でも見事な紅葉に出会いませんでした。今度こそと期待して見た境内の中央にある大銀杏も展望台から眺めるモミジも見事に裏切られました。

 東急大井町線の踏切を越え、数分で「浄真寺」に着きます。

 浄真寺の地は、もともとは世田谷吉良氏の奥沢城でした。小田原征伐後同城は廃城となりました。寛文5年(1675年)に当地の名主七左衛門が寺地として貰い受け、延宝6年(1678年)、珂碩上人(かせき)が同地に浄真寺を開山しました。本尊は釈迦牟尼仏で浄土宗です。

 広い境内の本堂の対面に3つの阿弥陀堂があり、それぞれに3体合計9体のそれぞれ印相の異なった阿弥陀如来像が安置されている。この9体はそれぞれ、上品上生(じょうぼん・じょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生という、浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これらをあわせて九品(あるいは九品往生)という。この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれている。

松並木の参道は、長いです。お寺に入る前に参拝者の心を清らかにして貰うためではないでしょ

 総門を潜るとモミジが目に飛び込んできます。モミジはその先の山門から奥まで広がっています。浄真寺の紅葉は素晴らしいと聞いていました。等々力渓谷では、見られなかったので大いに期待しました。またもガッカリでした。気を取り直し右手にある「閻魔堂」にある閻魔像と葬頭河婆像(そうずかばあ)を見て山門に向かいました。その途中カメラを持った人から「10日早かったよ」と昨年の写真を見せてくれました。

  山門は紫雲楼といい、一対の仁王様、楼上には阿弥陀如来と25菩薩の像が安置されているほか、風神・雷神の像もあって地域全体の安全が意図されています。山門の左手にある「鐘楼」の作は、神田鍛冶町の河合兵部郷藤原周徳。堂屋も欅造りで欄間には十二支がはられ、北に子、南に午が彫られていす。

 山門の右手が「本堂」、その脇にある銀杏の大木は、見事に黄葉に染まっていました。これを見ただけでこの日は満足です。

 本堂では、この日、住職のお話会が行われ数十人の信者たちが聞き入っていました。本堂には上人の彫りあげた釈迦牟尼仏を中心に、右に善導大師、左に法然上人の像が安置されています。中でも右側にある珂碩上人像は乾漆製の芸術価値の高いものである。堂の隅には、釈迦の弟子で賓頭盧尊(ぴんずるそん)者像があります。本堂は総欅造りで、昭和42年修築し、茸屋根を銅茸にかえられました。
 本堂の正面に三佛堂があります。右から「中品堂」「上品堂」「下品堂」の順です。それぞれに3体合計9体の印相の異なった阿弥陀如来像が安置されています。浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これらをあわせて九品(あるいは九品往生)と言います。この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれています。

  その他の「三十三観音堂」「開山堂」「地蔵堂」「阿育王塔」を、気の向くままゆったりした気持ちで秋の散策を楽しみました。

 本堂の正面に三佛堂があります。

 右から「中品堂」「上品堂」「下品堂」の順です。それぞれに3体合計9体の印相の異なった阿弥陀如来像が安置されています。浄土教における極楽往生の9つの階層を表しており、これらをあわせて九品(あるいは九品往生)と言います。この九品の仏から、浄真寺は通称「九品仏」と呼ばれています。

第11回  馬込文士村を訪ねる。

 ◆催行日   10月24日(水) 前日は雨でしたし、下見も小雨でしたので天気を心配しましたが曇りで、散策日和でした。

 ◆集合場所  JR大森ホーム中央の日本考古学発祥の碑付近

◆散策コース  大森駅―文士レリーフ前―大森射的場跡―闇坂 ― 善慶寺―片山子・山本有三跡 ―おこん坂―

        石洋二郎・川端康成跡― 臼田坂 ― 磨墨塚 ― 垣足・衣省三跡 ―尾崎四郎・宇野千代跡 ―

        真船豊 ―土博物館<解散>

 大森中央改札から西出口を出て池上通りを渡り、階段を上がります。石垣塀には「馬士村」来を書いた説明版や文士村に住んだ知識人をはじめ、大正末から昭和初期の文士村の風俗を表わしたレリーフが貼り付けられています。

 馬込文士村は、大正後期から昭和初期にかけて、東京府荏原郡馬込村を中心に文士や芸術家が暮らしていた地域のことです。

 馬込文士村の馬込村(現在の北・南馬込)と入新井村(現在の山王、中央)は、江戸時代までは農村でした。この農村に明治9年(1876)東海道線大森駅の開業により、馬込は東京近郊の別荘地として開発されます。それに伴い文化人の往来も見られるようになり、明治の終わり頃、芸術家や詩人たちが山王一帯に住むようになりました。

 大正12年に馬込に引っ越してきた尾崎士郎は、馬込が大変気に入り、知り合いの文士たちを、しきりに馬込にくるように勧誘したのでした。

 「射的場跡 日本帝小銃射的協会」と彫られた石碑のある場所は小高い丘の峰にあたっており、かつて射場があったテニスコートは、窪地のようになっています。

  日本帝国小銃射的場は、明治22年から昭和12年頃まで射撃場として使われていました。一般の人に小銃射撃の練習を奨励するために、明治5年(1882)西郷従道らが本郷向ケ丘に設立しました。本郷から大森に移転したのが明治22年のこと。当時、射程距離は300m500mの二つがあったそうです。

  射的場前を通過、山王2丁目14の表示がある所を右折し、直ぐに左折しい通りに出たら渡った左前方に「闇(くらやみざか)」の案柱あります。

  急角度の下り道の側は、10mもありそうな石垣で突き上げられた屋敷となっています。その上から木の枝だが延びており、昔は薄暗い道路であったであろう事がうかがえる。この事から、この名が付けられたと言われている

 の案柱の角を右折して進むと右側に「山王公園」。「山王保育園」前を道なりに下り、その先T字路を「山王館」の標識に沿って左折して下ります。

  この山王公園は、大正11年(1922)に開業した「大森ホテル」があった所あり、斜め向かいには大正元年に開業した洋館二階建ての「望翆楼ホテル」がありました。

 「山王館」は、案板がある角を右に曲がり道を上がった所です広い門を潜り右手の瀟洒なマンションの一階に「太田区立 山王会館馬込文士村資料展示室入口があります。展示室内には、大正から昭和初期にかけて、馬込や山王にゆかりのある尾崎士郎や宇野千代などの作家の原稿や作品が展示されています。中央に和室があり、ゆったりとした雰囲気で鑑賞できます。入場無料ですので文学の世界に浸かっては如何でしょうか。

 外に出て右へ、10段ほどの石段を降り左へい路地を下ります。煉瓦敷の路地に出て、山王3丁目22の表示の角を右折、前方に寺の山門が見えます。

  この寺は「法光山善慶寺」と言い、東京都跡文化財に指定されています。寺の中に「義民六人の墓」あります。

 江戸時代の荏原郡新井宿村は、家康の関東入府から幕末に至るまで、旗本木原氏の知行地でした。四代兵三郎重弘の時代、延宝元年(1673)の旱魃、翌年の多摩川の氾濫による洪水や長雨のなどの天災で農民の困窮は激しく、過酷な年貢収奪に耐えかねた村民は、19条の訴状を提出して年貢の減免を願い出ました。この訴えが黙殺されたため、百姓6人は将軍家綱に越訴しようとしたが、決行直前の延宝5年(1677)正月二日、密告により捉えられ神田橋門外にあった木原内匠邸で処刑されました。越訴事件は、村人の中に語り受け継がれ、延宝7年義民の縁故先の間宮藤八郎が両親の墓を建てると称して、6人の法名を刻んで密に設立したのがこの墓です。

 「善慶寺を」出て、環線に出ます。右折して新井宿道橋を通過、前方の環状七号線沿いに「池尻川跡」の案柱とその「山本有三」「片子」文士の記念碑あります。

  細いくねった路地を進み環七を渡ると南馬込です。細い路地の突きたりの「大倉山公園」を左折。再度左折して進むと「おこんのいわれを書いた案柱と、そのに倉田百三・石洋二郎・川端康成の記念碑への方向表示板あります。

  この坂の由来はいろいろな説があります。臼田坂の右から谷中におりる坂道だから「右近坂」とよばれるようになった。近くに「右近」あるいは「おこん」と呼ばれる女性が住んでいた。また「うこん色」の着物を着た娘が、よくこの坂を通ったからと様々です。

 右方向へ向かうややい道を上り、リビングパーク駐車場看板手前を左折。直進すると南馬三丁目都パート前に出ます。ここは江時代の老中阿部正弘の別邸跡です。阿部正弘は、備後福山10 万石の藩主阿部正弘は、寺社奉行を経て老中になるのが、天保14 年(184324 歳の時です。当時の日本は外国の度重なる接近に動揺し、その対応に苦慮していました。嘉永6年(18536 月にアメリカの使節ペリーが浦賀に来航しました。正弘は品川沖に御台場砲台を築き、対策を講じました。

 更に進むと「石坂洋二郎」「川端康成」文士の記念碑に出ます。この前の道を下り、赤いポスト下のい道を右折、青い蔦にすっぽりと覆われた民家の下のを上がり、南馬文化センター標識の下をくぐります。右側に「臼田(うすだざか)」の案柱と、の祠があり、花が添えられていました。

写真 左から順に「山本有三」「「片山広子」「老中阿部正弘」「石坂洋二郎」「川端康成」「臼田坂の柱」「地蔵堂」です。

 南馬丁目18の標識がある店先を右折すると直ぐに、「磨墨塚(するすみづか)」の高い自然石からなる由を書いた記念碑と大木が生えた一角があります。磨墨塚の碑は、源平の宇治川の合戦で活躍した梶原景季の名馬・磨墨の墓と言われています。磨墨乗った景季は、1184年(寿永3)の宇治川の戦いで、やはり名馬の誉れ高い池月(いけづき)に乗る佐々木高綱と先陣を争いました。磨墨の石碑は、昭和の初めに近隣に住んでいた篤志家が、磨墨塚の伝承を後世に伝えようと私財で建てたものです。

  前方の八百屋前を左折して進むと、段差がある上下の路地をつなぐコンクリート石段垣足・衣省三の記念があります。注意しないと通り過ぎてしまいかねません。ここから150mほど離れた、南馬四丁目29の十字路を右折、南馬四丁目27表示の文士村案マップ前を左側にを下ると、尾崎四郎・宇野千代二人の記念碑があります。

 少し進んで十字路を真っすぐ行くと「鐙(あぶみざか)」の案柱あり。このの十字路を前へ直進、突きりの斜めT字路を左へ、直ぐに右折、馬込区民センター・熊谷子記念館・土博物館方向標識前を土博物館方向へ進み、南馬五丁目13表示を右折、梅園を過ぎると、南馬五丁目公園あり、この公園にあるのが「真船豊」の記念碑です。写真左から順に「稲垣足穂」「衣巻省三」「尾崎四郎」「宇野千代」「真船豊」「磨墨塚の碑」「鐙柱」です。

 直進してT字路を手前に土博物館の表示板あり。左折してを下ると直ぐに「大田土博物館」前に出ます。入口右側に「佐藤朝山」の記念碑あり。朝山は、この敷地に大きな家を構えたとあります。

  博物館の入り口に到着して驚きました。何と休館の札が下がっていたのです。休館日は、毎週月曜日でしたので全く想像していませんでした。今回は、文士たちが馬込に住んでいたことを確認した後、博物館で馬込文士村の歴史をじっくり味わうことでした。全員肩を落しガッカリして西馬込駅に向かいました。

  下見で、見ていますので中をご紹介しましょう。

  三階が、「馬込文士村」の展示室になっています。室内には、馬込文士たちの作品、自筆原稿、遺品などの所蔵資料を展示されています。中心となっているのは、尾崎士郎で人生劇場 望郷編の自筆の書や原稿、宇野千代との写真などが紹介されています。最盛期には80名以上の文士たちが居住しましたが、その中から、尾崎士郎、宇野千代、室生犀星、萩原朔太郎、吉田甲子太郎ら馬込文士村の中心人物、吉屋信子、村岡花子ら女性作家、真野紀太郎、川瀬巴水、伊東深水ら画家たちをはじめ、約20名を取り上げ、その作品と馬込での生活を紹介されています。

  大変興味深かったのが、「麦藁細工」です。これまで一度も見たことがありません。麦藁細工は、江戸時代中頃から大森で作られ、東海道を行き交う旅人に「大森細工」と呼ばれ親しまれていました。色染めした麦わらでトラ、カエル、カメ、でんでん太鼓などを編んだ「編み細工」と、小箱に色染めした麦わらを張り込み装飾文様とした「張り細工」があります。今の時代に販売しても売れるのではないかと思われます。

  また、大正末期から昭和初期の馬込地域の景観を再現した地形模型や、海苔の養殖の歴史、小林古径邸の復元模型、北原白秋邸で実際に使用された窓枠なども展示されています。

第10回  葉山の風景を楽しもう! 海岸沿いの散策コース

◆催行日    9月19日(水) 

◆集合場所  JR逗子駅 横須賀病院行きバス停

◆散策コース 長者が崎→葉山公園→御用邸→小磯海岸→葉山しおさい公園→県立近代美術館→(山口蓬春記念館)→森戸海岸  

       →森戸神社→🚌-(12分)逗子駅

 塀を伝って歩きますとポリスボックスがありますので、そこを右に入り小さな公園を横切って裏口に出てそのまま直進します。国道に出たら左に曲がりますと

葉山しおさい公園」です。

 葉山しおさい公園は、葉山御用邸付属邸跡地に開設され、県の公園50選に選ばれています。公園内には、博物館、日本庭園、噴井の滝(ふけいのたき)、茶室などがあります。「博物館」には、しおさいが聞こえる貝殻(実際に聞いてみてそれぞれ少しずつ違いがある)、今生天皇が皇太子時代に妃殿下と乗ったヨット、昭和天皇が採取された海洋生物など珍しいものが展示されている。一見の価値はあります。

 「噴井の滝(ふけいのたき)」は、湧水部が力強く吹き上げる井戸型をしていることから名付けられたとの説があります。「潮見亭」今は休憩所となっていますすが、皇太子ご成婚記念として裏千家玄玄斎が考案した茶室です。

潮見亭から樹林の道を進みますと芝が敷きつけられた広場に出ます。この日は、右手前方に頂上が現れた富士山が見えました。素晴らしい景色でした。

 県道207号線に戻り森戸神社を目指します。県道の両側に立ち並ぶ家々はみな大きな敷地を持ち、それぞれが素晴らしい趣を備えています。そして柴崎の海岸を回ると真名瀬、ヨットが係留されています。ここまでくると道の両側にお店などが並んでいます。少し進むと左手の見晴らしの良いところにデニーズがあります。ここで静かな海岸を見ながらコーヒーを味わい、休憩するのも良いでしょう。

 店を出て暫く歩くと森戸のバス停があります。そこに「森戸神社」があります。  

 森戸神社は、鎌倉時代に源頼朝が、伊豆の地で源氏再興を祈願し三嶋明神(大社)の分霊を祭って創建した由緒ある神社です。

 この神社は、若い女性、若い夫婦づれが目立つのに驚きましたが、理由がありました。「子宝」に恵まれるのと「恋が実る」神社なのです。

 「子宝石」は、古来より子宝に恵まれると言い伝えられている霊験あらたかな石です。御神床(小さな座布団)の上に置き神棚にお祀りするか、寝室にお祀りすると良いそうです。もう一つの恋の成就に「貝合わせ恋守」があります。一対の貝がピタリ重なるように唯一無二の良縁に恵まれると言われています。本殿の裏手にある細い道を登りますと飛柏槇(びびゃくしん)があります。飛柏槇は森戸大明神の御神木で、1184年(元暦元年)5月19日、源頼朝が参拝した時、三嶋明神の方角から種子が飛んできて発芽したと伝わります。

 その眼前の大きな岩には「千貫松」(せんがんまつ)があります。「千貫松」は、源頼朝公が、衣笠城に向かう途中、森戸の浜で休憩した折、岩上の松を見て「如何にも珍しき松よ」とほめたところ、出迎えた和田義盛が「千貫の値ありとて千貫松と呼びて候」と答えたといわれています。駐車場の奥には、石原裕次郎をしのぶ碑、詩人堀内大学の詩碑、明治天皇と照憲皇太后の歌碑、大正天皇御即位の御大典記念碑、昭和天皇御即位の御大典記念碑などが立ち並んでいます。更に、数百メートル先の岩場に葉山灯台(裕次郎灯台)が、船の航海の安全を見守っています。

第9回 白金庭園美術館と自然教育園を訪れる

 ◆催行日  2018 年 7月18 ()

 ◆集合場所 東京メトロ南北線・白金台駅 集合 

◆散策コース 白金台駅→自然教育園→都立庭園美術館(旧朝香宮邸で解散、目黒駅から帰宅)

  正面に存在する瀟洒な建物は、1933 (昭和8 )完成したコンクリート造2 階建で、アールデコ様式の粋を尽くした内装となっています。アールデコは、1910年から1930年にかけてフランスを中心にヨーロッパを席巻した工芸・建築・絵画・ファッションなど全ての分野に波及した装飾様式の総称です。直線と立体の知的な構成都幾何学的模様が特徴です。

  同館の敷地および建物は、香淳皇后の叔父にあたる朝香宮鳩彦王が1947年の皇籍離脱まで暮らした邸宅でした。

  朝香宮家は、久慈宮朝彦親王の第8王子鳩彦王が1906年に明治天皇から朝香宮の宮号を賜って創設した宮家です。宮邸は朝香宮一家が退去した後、吉田茂によって外務大臣公邸として、1947年から1950年にかけて使用された。1950年には西武鉄道に払い下げられ、19554月に白金プリンス迎賓館として開業し、国賓・公賓来日の際の迎賓館として1974年まで使用されました。19745月からプリンスホテルの本社として使用された後、198112月に東京都に売却され、1983年(昭和58年)に都立美術館の一つとして一般公開されました。

 展示内容は、朝香宮家由来の建物と家具や内部装飾そのものが芸術品であるため、「美術館」と銘打ってはいるものの所蔵品による常設展示はなく、作品収集自体行っていません。企画展示が年に5 - 6回行われています。

第8回 品川の花海道を堪能しよう

 ◆催行日   2018年9月5日()

       この日は、夏休み明けの久しぶりの散策でした。皆さん、張り切ってと思いきや深夜まで雨

       風が強く、台風21号は早足で通り過ぎての猛暑。関西国際空港をはじめとする、すさまじい

       台風被害がTV放送されているのを気にしながらの散策となってしまいました。
◆集合場所  東急大井町駅改札口を出た所

◆散策コース 大井町駅→海晏寺→泊船寺→山内家の墓→鮫洲八幡神社→しながわ花街道→浜川砲台 

       →浜川橋(泪橋)→坂本龍馬像→天祖諏訪神社→しながわ区民公園→鈴ヶ森刑場跡→

       品川水族館→大森海岸駅(解散)

JR と東急大井町駅の改札口から出て信号を渡り左に進みます。商店街のアーケードを進んだ先に三叉路があります。その信号を渡った右角に八木合名会社仙台味噌醸造所があります。小売りもしているのでお好きな味噌を購入するのも良いのではないでしょうか?

 仙台藩は江戸藩邸に常勤している3000名の食料をすべて仙台から運んでいましたが、ここに味噌醸造を施設し江戸詰の藩士の食用だけでなく、江戸市中にも売りに出しました。たちまち江戸っ子の評判となり、下屋敷は「仙台味噌屋敷」とも呼ばれるようになったのです。

 そして道なりに進んだところが仙台坂です。

 途中、右手のマンションの前に大きなタブノキが聳えています。樹齢300年とか。

仙台坂を下った左手に「海晏寺」があります。

 建長3年(1251)品川沖に上がった大きな鮫の死体を解体したところ中から木造の聖観音が出てきました。この話が鎌倉幕府 執権北条時頼の耳にはいり、時頼の命で、この地に伽藍が建立され、聖観音が安置されました。これが海晏寺の始まりと言われ、鮫洲の地名はこの故事から来たといわれています。

  海晏寺の小高い丘の上には、NHK の大河ドラマに出ている「岩倉具視」「松平春嶽」の墓所があります。だが、この土地は、岩倉家の土地で、入り口が千錠されているので残念ですが中に入れません。 

 岩倉具視は、孝明天皇の近習として公武合体政策を推進したことで失脚し幽閉生活を送るが「禁門の変」により復権。王政復古の大号令案を奏上し、新政府を樹立。自らは大久保利通と共に参与となり、新政府の実質的トップとして活躍しました。

 松平春嶽(まつだいらしゅんがく)は、第16代越前福井藩主で、当初、攘夷を主張するが、途中から開国派に転じる。井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺されると春嶽は復権し政事総裁職に就任し、公武合体政策を推進する。維新後の新政府では、内国事務総督、民部官知事、民部卿、大蔵卿などを歴任する。

 「明治」という元号の命名者であり、西洋のリンゴを初めて日本に導入している。(写真左から「海晏寺」「岩倉具視の墓」「松平春嶽の墓」)

 境内を一巡して第二京浜国道に戻り右へ、南品川二丁目の信号を渡って右へ、仙台坂の左手前の「泊船寺」に入ります。

 泊船寺(はくせじ)は、室町前期に創建された臨済宗の寺。徳川五代将軍綱吉の時代の住職が、松尾芭蕉と親交があり、境内に牛耕庵を建て芭蕉を招いたと伝えられています。

 文化年間(18041818)俳人でもある白牛禅師が住んだとき、この寺は俳句が盛んになり、毎年3月、10月には牛耕庵の前で句会が開催され別名俳句寺とも呼ばれている。それを松尾芭蕉の俳句の碑が証明しています。

また品川区指定の文化財として「松尾芭蕉坐像」、芭蕉の弟子の「服部嵐雪と宝井其角の坐像」「白牛禅師坐像」などの彫刻が本堂に安置されています。

 境内を通り抜けて直進、京浜国道に沿うように進み右手の公園に入ります。そこに仙台藩の下屋敷跡の碑が建っています。公園を出て右手の公園を見ながら進み、突き当たった所の階段を登った先に山内家のお墓があります。

  山内家の墓は、高知市中心部を流れる鏡川右岸沿いの丘陵,筆山(ひつざん)北麓(ほくろく)に位置する場所にある。ここに15名の歴代藩主が埋葬されているが、豊信(容堂)は埋葬されていない。東京で死去した豊信(容堂)の遺言によりこの地に葬られたと言われている。

 墓所には墓が4基あり、いずれも八角形の台座の上の土まんじゅう型。これは神道形式で明治になって山内家が神道に改宗したためです。墓所には、島津斉彬の妹で、土佐13代藩主・山内 豊熈の正室の墓石、山内豊信の墓、豊信(容堂)の次の16代藩主・豊範の再婚した二人目の正室「栄(ひで)」の墓。山内家合祀之墓がある。

 山内豊信は、尊王意識の伝統がある山内家に生まれながら、徳川家にも強く恩義を感じており、朝廷と幕府を一体化させる公武合体を実現する道を模索し続けた。当時、日本は幕末の混沌とした時代。外国から開国するよう圧力を受け、国内で政治不安が起こり、幕府と討幕勢力が互いに権力争いをしていた。 双方が、事態の打開を図ったが、両者共に決定打が出せず、政治均衡を生み出し、事態は膠着した。このような事態にあった1867年、容堂は、坂本龍馬発案「船中八策」を後藤象二郎から進言され、徳川慶喜に大政奉還を建白したと言われている。飲酒が元で脳溢血に倒れ、46歳の生涯を閉じた。

 そこから又第一京浜に戻り歩道橋を渡って反対側に出て京浜急行の高架下を潜って直進します。左手が京急鮫洲駅です。右手の運転免許更新の代行屋の横手を入ると鮫洲八幡神社があります。その境内の池に遊ぶコイなどを見て右へ進みます。信号を渡って直進、次の信号の右手に「花街道」の案内が建っています。その右手にあるコンビニで冷たいものを補給しました。

 さらに直進、突き当たったら右に曲がり勝島運河沿いに進みます。その運河の土手に沿ってコスモスが汗だくの私達を迎えてくれます。

 ここから「しながわ花街道」のスタートです。心地よい潮風に吹かれながらの散策です。乗り合い船も繋がれています。

 「しながわ花海道」は、春は菜の花・秋はコスモスと季節を代表する花を咲かせているが、かつては雑草だらけでゴミや空き缶等の散乱や犬の糞の悪臭があり地元の人でもあまり近寄らないところだった。「勝島運河の土手に花畑をつくろう」を合言葉に、しながわ花海道プロジェクトが平成14年7月に設立された。そして1.5m四方の区画約1200枚を、一般の方や地元小学校の児童たちがそれぞれ自分の畑のつもりで参加し素晴らしい花海道に生まれ変わったのです。

 KM 余の遊歩道を楽しみ土手を下ります。目の前の小さな公園の中央に坂本龍馬が作ったとされる「浜川砲台」があります。

 嘉永六年(1853)のペリー来航に対して、幕府は、お台場に6基の台座を作り砲台を築きました。(お台場の名前はここから付きました)土佐藩は品川宿に下屋敷があったことから近くの海辺の砂浜を埋め立てて2300坪まで拡大、大砲8門を備える砲台を築いて異国船の再来襲に備えました。

 新浜川公園に30ポンド6貫目ホーイッスル砲」を原寸大(全長 3メートル、車輪の直径 1.8メートル)で再現されたレプリカが設置されている。因みに他藩では、丸太を大砲らしく作ったといいます。

 ここを出て立会川に沿って進みます。左手の浄水場の壁に龍馬の絵が蒸気船とともに描かれています。なおも進むと浜川橋(泪橋)に出ます。

 鈴ヶ森刑場の周辺は、かつて海岸沿いのさびれた地であった。鈴ヶ森の刑場に向かうには、近くの立会川にかかる泪橋をわたった。 泪橋は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場。お互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられた。

 

 ここで立会川と別れ右折、すぐに左折して商店街の中を直進すると京急立会川駅です。その手前に坂本龍馬の立派な銅像が建っています。銅像を背に左に入ると弁天橋、渡って直進した先に「天祖諏訪神社」があります。境内を通り抜け直進し、すぐに右折してクランク状に進んだ先に品川区民公園があります。

 そして水族館に続くトンネルの手前を右折して園外に出て進むと「鈴ヶ森の処刑場跡」に到着です。

  鈴ヶ森刑場は、江戸の北の入口(日光街道)沿いに設置されていた小塚原刑場とともに、南の入口(東海道)沿いに設置されていた。小塚原と鈴ヶ森はともに犯罪者の刑場であり、磔火焙り獄門が行われ牢内で斬首された首はここに運ばれて晒された。1651年(慶安4年)開設1871年(明治4年)閉鎖。220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。最初の処刑者は江戸時代の反乱事件慶安の変の首謀者のひとり丸橋中弥であるとされている。その後も、平井権八や天一坊、八百屋お七といった人物がここで処刑された。

  元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に鈴石(振ったりすると音がする酸化鉄の一種)があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという。

 その隣に大経寺があります。ちょうど第一京浜国道と京浜急行を背にしたような場所に立っていました。

 またもと来た道を戻りしながわ区民公園に入ります。奇麗に植栽された松林の中に大きな池があり、その先に水族館があります。ここのレストランちょうど昼時になってしまうので相当行列をしなくては食べられないようです?

 ここで解散となりました。

第7回  帷子川を歩き水道橋を訪れる

催行日    2018年6月27日(水)

                             もう梅雨空けかと思われる夏空、風がありそれほど暑くもなく散策日よりでした。

 集合場所   AM930分 中山バス停1番乗り場「鶴ヶ峰行」

 ◆散策コース  中山バス停1番乗り場「鶴ヶ峰行」 ⇒ 都岡町下車 ⇒ 郡役所跡 ⇒ 指さし観音 ⇒ 水道道プロムナード ⇒ 川井トロッコ橋 ⇒

        福泉寺 ⇒ 上川井神明社 ⇒ 長源寺 ⇒ 大貫谷戸水路橋 ⇒上川井町小川アメニティ ⇒ 帷子川水源 ⇒ 若葉台団地 ⇒ 若葉台中央バ

                         ス停(解散)

  ナビ倶楽部では、沢山の横浜市の歴史、自然を訪ねてきました。至る所に登場する川があります。それは鶴見川と帷子川です。

 今回は、源流を遡った帷子川の歴史をご紹介致します。

 帷子川は、横浜市旭区若葉台に源を発し、旭区、保土ヶ谷区、西区の市街地を西から東へと貫流し、横浜港へ注ぐ都市河川のひとつです。
 
旭区若葉台団地に隣接し国道16号との間に挟まれた上川井町の警察犬訓練施設脇の畑と産業廃棄物埋め立て地に源を発し、上流部では、二俣川、中堀川、新井川等の支流を合流し、下流部では今井川、石崎川、新田間川(あらたまがわ)等の派川を分合流する流路延長約17km、流域面積約58km2の二級河川です。現在の河口周辺の埋め立て以前の河口は平沼橋駅あたりでありました。

  江戸時代、帷子川河口には舟着場があり、潮の干満を利用した舟運の拠点として、商人が薪や炭を江戸方面に送るなどにぎわいを見せていました。ところが江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起った富士山の宝永大噴火で、川と町の様子が一変しました。この噴火による降灰で、帷子川河口付近に灰が溜まり港の機能を失ったのです。これをきっかけに、江戸後期に帷子川の入江が整備され芝生(しぼう)村に新しい港ができ、明治まで埋立が進みます。開港時、この芝生村が開港場と東海道を結ぶ拠点となります。

  明治になると絹のスカーフの輸出が急増し、港に近くて水陸の交通の便が良く、清流で豊富な水量があったことなどから、帷子川周辺に染色工場が集まりました。捺染(なっせん)の最後の工程で、布の余分な染料やのりを落とすため、川の流れを利用して水洗いする作業があり、流れ出した染料で川も七色に変わったと言います。明治時代末期から、大小の工場が建設されはじめます。特に市内で採取された蚕のまゆから絹糸が製造する紡績業が盛んにあります。大正期には、多くの工場が誘致されたことによる経済効果で、大いににぎわったといます。
第一次世界大戦がはじまると、保土ケ谷区の帷子川流域も空前の好景気を迎え、工業地域として、ますます発展していきました。

  帷子川(かたびらがわ)という名前の由来についてはいくつかの説がありますが、保土ヶ谷区歴史資料地図によると、現在の天王町一帯は昔、一方が山で他方が田野で平らな地形をしていたため、片平「かたひら」と呼ばれ、その中を流れていた川を「かたびらかわ」と呼んでいたそうです。他にも海が入江となっていたことから「潟かた」と呼ばれ、これが転化したという説、または、地形が衣料の帷子に似ているからという説などがあります。
 また漢字の「帷子川」」ついては、文明12年(1480年)の太田道灌の平安紀行に「帷子」という地名(現在の天王町付近)があり、現在の帷子川はここからきたものとされています。
 以上の他に知りたい方は、ガイドマップに添付されています「散策ガイド」「散策資料」をご覧ください。

写真>左から「帷子川の源流から鶴ヶ峰まで」「源流」「近くの帷子川」「分水嶺のトンネル」

第6回  横浜唯一の渓谷(陣ケ下渓谷)と水道の歴史を学ぶ

 ◆催行日    2018613()

                                梅雨の中休みで、晴れ。それほど暑くもなく心地散策日和でした。

 ◆集合場所   AM930分 相鉄線上星川駅改札

 ◆散策コース  相鉄上星川駅南口改札―両郡橋―稲荷橋―随流院―杉山神社―陣ケ下渓谷―公園の南口―横浜水道記念館―川島町旧配水計室上

                         屋 ―上星川駅

 陣ヶ下渓谷ですが、歴史と言える程のもはありません。

 裏話程度のことですが、面白い話がありますので紹介します

 陣ヶ下(じんがした)渓谷は、保土ケ谷区川島町のほぼ中央に位置し、15.1ヘクタール(横浜スタジオ5.7個分)の面積を持つ、風致公園

(自然の風景などのおもむきを味わうために整備された都市公園)です。

 陣ヶ下という名前は、鎌倉時代に源頼朝の御家人である和田義盛が狩りの陣を張ったのでこの名が付けられたとされています。

 帷子川本流が東西に走り、昼なお暗い鬱蒼たる樹木が生い茂る林のなかでは、いたるところで湧き水がわき、横浜という都市部にもかかわらず、きれいな流れを保っています。

  しかし、公園化する前は違っていました。

  森は荒れ放題で道も悪く階段も土で出来たものでした。森の中を通って小学校に通う子どもがいましたが、道が悪いため浄水場のほうを通って森を迂回する道を使っていました。また、以前は、公園内で変質者が出たそうです。

 それが、環状二号線が通るのに伴い、都市公園として整備され、陣ヶ下渓谷公として公開されたことで、現在のような環境にもよく、素晴らしい渓谷に生まれ変わったのです。

  渓谷の源流の明確な地点は、解っていません。周辺が住宅地や環状2号線として開発される以前は地下水からの湧出を水源としていたと考えられていました。開発後は、大きく大別すると下記のように4つに分けられます。
 ①川島町の民地から湧き出る地下水
 ②横浜市水道局西谷浄水場から出る雨水等の濾過水
 ③保土ヶ谷高校遊水池からの流入水
 ④市沢町、左近山の住宅街から注ぎ込まれる雨水

 次に「横浜の水道の歴史」を紹介します。

 横浜水道記念館には、「横浜の歴史は、水の歴史」と掲げられています。それ程、両者の関係は切っても切れない深いものがあります。

 横浜村は、戸数わずか100戸ほどの一寒村でありました。この寒村で1854年に日米和親条約が締結され、その4年後の日米修好通商条約の締結によって1859年横浜が開港しました。

  新しく生まれ変った横浜は、開国日本・新生日本の象徴となり、その魅力にひかれ内外から多くの人が集まります。横浜の人口は日に日に増加し、市街は急激に発展しました。当時の住民は水を求めて井戸を掘りましたが、横浜は海を埋め立てて拡張してきたため良質な水に恵まれず、ほとんどの井戸水は塩分を含み、飲み水には適しませんでした。

  人々が飲料水を手に入れることは容易ではなかったのです。写真の人は水売りといって水が入った木桶を担いで売っていた様子。飲料水用の井戸も数が少なく行列ができるような状態だったのです。

  そこで横浜商人の有志が、私費を投じて木樋水道を建設しました。2年ほどで完成したこの水道は、今のように相模川から引いていたものではなく、多摩川から引いていた川崎の農業用水であった二ヶ領用水の鹿島田口から分水したのです。

  完成後は、経営難のため元々は民間の水道会社だったのだが神奈川県に引き継がれただけでなく、木製ということもあり破損がひどくこの状態では続けられないことになりました。

 

大正121923)年91日に関東地方を襲った関東大震災により、施設に壊滅的な打撃を受けました。

  関東大震災は、大変な数の死者を出した地震だったが、多くの人を困らせたのが、水不足だった。その時に横浜市民を救ったのが、中区の打越橋近くにある「打越の霊泉」や「ワシン坂の湧水」など古くから自然湧水している湧き水でした。

  復旧と節水対策を進めていきますが、更に、昭和161941)年に始まった太平洋戦争に伴う空襲により、横浜市は再び甚大な被害を受けました。終戦時には給水人口は戦災前の755,000人から220,000人へ、給水戸数155,000戸から47,000戸に激減し、庁舎や水道施設などにも大きな被害を受けました。

  そして終戦、混乱、復興の試練を乗り越え日本経済は時代と共に大きく変わります。戦後の産業発展に伴う人口増加に加えて、洗濯機、自家用風呂、水洗便所が急速に普及するなど生活水準が向上し、水需要も著しく増加しました。これに対応するため、3回の拡張工事を相次いで行い増強を重ねました。

  今の横浜の保有水源は「道志川系統」「相模湖系統」「馬入川系統」「企業団酒匂川系統」「企業団相模川系統」の5系統です。

  それらの川の水を取水して人口370万人の超マンモス都市横浜市の各家庭に1,955,700m3/日を配っているのです。

 

 散策コースの詳細、随流院や横浜水道記念館の詳しい内容は、ガイドマップに掲載しています「散策ガイド」「資料」をご覧ください。

第5回  明治の匂い香る大磯の別荘邸と旧吉田邸を訪ねる

◆催行日   2018年5月30日

 ◆集 合   JR大磯駅改札口 AM9時30分

       この日の天気予報は、昼ごろから雨でしたが、幸いにも最後まで一粒の雨も落ちませんでした。

 ◆散策コース JR大磯駅―避暑地の碑―大磯迎賓館―延台寺―地福寺―本陣跡―大磯照ケ埼海水浴場の碑―新島襄終焉の地―鴫立庵―

       原敬別荘―島崎藤村旧宅―東海道松並木―滄浪閣―旧吉田邸12:30 頃解散、バスで大磯駅へ

                      希望者は昼食後、大磯城山公園(大磯郷土資料館)-バスで大磯駅ー沢田美喜記念館 解散

  つづきナビ倶楽部では、東海道53次の宿場である品川、神奈川、程ヶ谷、戸塚、藤沢まで散策してきました。順番で言えば、平塚なのですが、飛ばして大磯を散策しました。

 それぞれの宿場には、栄枯盛衰のドラマがありました。今回、大磯を歩いてみると、期待にたがわない素晴らしいドラマがありました。

 徳川家康が江戸に幕府を開くと、軍事的目的もあって江戸を中心とした交通網を整備します。東海道は、1601年江戸と京都更に大坂を結ぶ主要道として設立されました。

 大磯宿は三軒の本陣と(小島・石井・尾上)四軒の大旅籠(藤屋・大笹屋・宮代屋・山城屋)が指定されました。大磯には、家康が鷹狩で移動する際に利用する「御茶屋」と呼ばれる施設があった。この「御茶屋」の南側に東海道を整備し、両側に旅籠や緒商人を移り住まわせ宿を形成していったのです。

しかし、大磯は平塚宿との間は僅か二十七町(2.9㌔)と短く、小田原宿とは四里(15.7㌔)で比較的長く、その間に徒歩渡しで有名な酒匂川があります。江戸からの旅人は、翌日の箱根越えに備えて小田原までありを伸ばします。箱根を下ってきた人は酒匂川の渡しを前に小田原で宿泊してしまうことが多かった。その為に宿場としては、寂れた存在の一つでありました。

  明治維新により宿場としての機能を失い、衰退の道をたどった大磯は、明治18年見事な繁栄をすることになるのです。それは、海水浴場と別荘の開発であったと言えます。

 「大磯海水浴場」を開拓したのは、松本順である。

松本は、長崎で蘭学を学び江戸に帰り、将軍家茂、慶喜の従医となる。その後、軍医総監に着任していた。軍医総監を退き海水浴場の好適地を探していた松本順は、大磯に宿泊したおり、弟子の案内で大磯海岸を訪れ、ここが海水浴場の条件に合致することを確認します。松本が大磯の中心的な人間に働きかけ、明治18年、大磯照ヶ崎海岸に海水浴場は開設されたのです。この頃の海水浴は、潮流で身体に刺激を与え、海辺の清涼な空気を吸うことで、泳ぐと言うことではなく海水につかまっているだけの塩湯治であった。

開設しましたが交通の便は悪い事もあって海水客は殆ど来ませんでした。松本は、「虎子饅頭」を持って、東京の名氏や知人宅を回り大磯海水浴場の宣伝に奔走します。

 そのころ明治維新政府は、宿駅制度の近代化のため明治4年に東海道筋に陸運会社の設置を決め、交通の近代化を進めていました。そして明治20年7月11日横浜―国府津間が開通、大磯にも「大磯ステーション」の営業が開始されたのです。

  汽車による旅客移動の利便性向上は、大磯に降り立つ人々を増やし、海水浴場へのお客が訪れるようになります。

  その後も松本の宣伝活動は続き、歌舞伎狂言作者の河竹黙阿弥に筆を執らせ、新富座で菊五郎や歌右衛門などの人気歌舞伎役者を揃えて「名大磯湯場の対面」を上演させます。

  こうして、京浜からの名刺が来るようになり大磯海水浴場は繁栄していきます。明治41年には、日本新聞社が避暑地の優良な所を募集したところ、大磯が第1位となりました

 子供のころ夏なるとあこがれたのが、湘南の海でした。

 石原裕次郎、加山雄三たちが、逗子や葉山、鎌倉など相模湾沿岸でヨットにサーフインを映画のスクリーンで格好良く興じ、エレキギターで奏でるサウンド。湘南とは、てっきり逗子や葉山だと思っていたのですが、違っていました。

 「湘南」とは、もともと現在の中国の湖南省を流れる湘江の南部のことで、かつては長沙国湘南県が存在し、中世には禅宗のメッカとなった。日本における「湘南」も禅宗の流入に伴って広まったと考えられ、「禅宗」を保護した鎌倉幕府の北条得宗家が居し、国内初の禅寺「建長寺」や「円覚寺」を擁した鎌倉周辺の地域が、中国の「湘南」にちなんで名付けられたといわれる。実際に、円覚寺の僧夢窓疎窓の周辺には「湘南」を冠する人物・建築が散見される。また、1664年ごろ、室町時代に中国から日本に移住した中国人の子孫が小田原に居してういろう商人となり(崇雪という人物)、自ら創設した大磯の鴫立庵に建てた石碑に「著盡湘南清絶地」と刻んだものが、現在の神奈川県周辺域における呼称の起源ともいわれる。この石碑は複製品が作られて鴫立庵の庭にあります。つまり、湘南発祥の地は、大磯だったのです。

 その「鴫立庵」は、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並ぶ日本の俳句道場です。

   心なき身にも あわれは知られけり 鴫立澤の秋の夕暮

  この句は、平安末期の歌人西行法師が、大磯あたりの海岸で吟遊して詠んだといわれています。江戸時代初期の1664 年に小田原の崇雪という人物が、西行のこの歌にちなみ、昔の沢らしい面影を残す景色のよいこの場所に庵を結び、五智如来の石仏を造り、鴫立沢の標石をたことに始まるといわれています。

 鴫立庵の庭には、江戸時代に建設され現在まで伝わる建物として「東往舎」(鴫立庵室)「秋暮亭」(俳諧道場)「円位堂」(西行座像を安置)法虎堂(虎御前九歳の姿を写した木造の安置)があります。

 松本は、次に手を打ちます。医療行為から始まった海水浴場には西洋のように病院があるべきと病院と旅館を兼ねた「禱龍館(とうりゅうかん)」を建設。早速、避寒・避暑・静養に最適であることをPR始めました。

  既に松本順や山縣有朋などが別荘を持っていましたが、PRが功を奏し岩崎弥太郎、旧土佐藩主家山内豊影、伊藤博文の滄浪閣が竣工されたのです。

  滄浪閣は、別荘地大磯を一躍全国的に有名にしました。その後旧鍋島藩主、旧紀州藩主、西園寺公望など旧公家や維新の功労者、財閥など華族に列せられる人々の別荘が続々と竣工されたのです。合わせて吉田茂を初め8人の宰相を含め、約60人にも上る一大別荘地として栄えました。

 それらの別荘は、現存しておりませんが、大磯町役場から旧吉田茂邸までに12軒の跡地が見られます。

 沢山の驚きを体験してきましたが、最後にも大きな驚きが待っていました。

 大磯駅の近くにある「澤田美喜記念館」で見た隠れキリシタンの苦しみでした。

  徳川家康は、1612 年(慶長17 )「キリスト教禁止」の命令を出しました。翌年から信者を見つけ次第捕まえて島流しにしたり、死刑にしたりのキリシタン狩りが始まりました。

  キリシタン狩りは、秀忠、家光の時代になると益々厳しさは増します。張り付け・火攻め・水責め・逆さ吊るし・のこぎり引きなどの残酷な方法で拷問し信仰を捨てさせようとしました。信仰の弱い人はすぐに信仰を捨て、死んでいく人もありました。だが、熱心な信者たちは、信仰を捨てきれません。ここに隠れキリシタンが生まれたのです。

  隠れキリシタンを発見するためにキリストやマリアの絵像を踏む踏絵が、江戸時代の1628 年(寛永五年)に長崎ではじめられました。やがてキリシタンが数多く存在した九州では、各地で踏絵が行われるようになります。1660 年代になるとキリシタン摘発のために全領民を対象として、制度化されていきました。

  それから禁教令の解除までの約250年間、キリスト教徒は幕府と幕府の庇護する仏教徒、神道信者などにより迫害される続けることになります。

  記念館には、現存する中で日本最古といわれる「踏み絵」や大黒様の背中、鏡、仏像、徳川家康の木造、刀の鍔などにキリシタンとわからないようにしたマリア像872点が存在します。

  長崎市民の念願であった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産への登録は、6月30日バーレーンの首都マナマでえ開催された国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第42回世界遺産委員会で、認められました。

第4回  鎌倉 朝夷奈切通しを歩く

◆催行日  523日(水)

 ◆集 合  AM930分 金沢八景駅改札

                       前日の晴れとは違い、朝から曇り。午後から雨との予報に皆さん折りたたみ傘を持参での参加でした。

 ◆散策コース

 AB班)朝比奈バス停⇒切通しを登る⇒熊野神社⇒峠⇒石地蔵⇒三郎の滝⇒十二所神社⇒光触寺⇒バス停にて解散(鎌倉駅へ) 

 (C    班)十二所バス停⇒光蝕寺⇒一乗恵観山荘⇒報国寺(竹寺)⇒鎌倉宮⇒絵柄天神⇒源頼朝墓⇒鶴岡八幡宮鎌倉駅 解散 

  今回の散策は、A・B班とC班が判れて「朝夷奈切り」と「鎌倉幕府の歴史」のコースを歩きました。2つのコースは、鎌倉幕府の政治と軍事・流通に大きな影響を与えてきました。

 鎌倉幕府は、壇ノ浦の戦い(1185年)で平氏を滅ぼした源頼朝が、朝廷から諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可され、1190年(建久元年)権大納言兼右近衛大将に任じられ、公卿に列し荘園領主の家政機関たる政所開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、さらに1192年、征夷大将軍の宣下がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなったのです。

 初めは、軍事・流通に大きな影響を与えた「切通し」についてご紹介します。

 鎌倉は南を海に、三方を山に囲まれていることで、守りやすく攻めにくい天然要塞とも言われています。しかし、人や物が行き交うには三方に山があることで鎌倉と外の交流が活発化しません。そこで、山を切り開き、切通しを造ることで通行を便利にして、人とモノの流通を活発化させたのです。

 また、切り通しは必然的に道の両側に崖が出来ます。敵が攻めてきた時、この崖で待ち構えれば、敵の動きが見通せ、石や弓矢で攻撃することも簡単に出来ます。切通しは、軍事的が要所にもなったのです。

 鎌倉には七つの切通しがあります。朝夷奈名越大仏化粧坂亀ヶ谷坂極楽寺坂巨福呂坂です。「鎌倉七口」と呼ばれるのですが、徳川光圀が京の七口になぞらえていいはじめたことです。 

 朝比奈バス停を降り、50mほど戻って右に入ります。すると大きなカヤノキノが目に飛び込んできます。この日は数名の植木職人が、ぼさぼさになった枝の剪定に格闘していました。

 カヤノキノ右を進むと正面に「国史跡 朝夷奈切通し」のプレートが立っています。ここから散策の始まりです。

 「朝夷奈切通し」最初に切り開いたのは、義盛の子である朝夷奈三郎義秀であったと伝えられ、たった一夜で切り開かれたという伝説があります。

 朝夷奈切通しは、鎌倉と主要港六浦を繋ぐ鎌倉幕府の物流の主要道路です。鎌倉側の十二所から入り、横浜市の金沢八景/六浦方面へと抜けます。当時の六浦は、全国の年貢米が集まる場所であり、塩の産地であり,安芸・上総・下総等の関東地方を始め、海外(唐)からの物資集散の港でした。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を超えて鎌倉に入り六浦港の政治的経済的価値は倍増しました。

足を踏み入れると直ぐに急坂があり、右手にある庚申塔群を見ながら進むと急坂に加えて道は、石が露出しゴツゴツしています。

鎌倉の特徴である泥岩からなる路面は雨に脆く、いたるところ雨水に浸蝕され溝状になっています危険を除去する為に土嚢が敷かれています。雨は1週間も降っていないのに道は湿っていて、注意しないと足を踏み外し捻挫しかねません。皆、足元を注意しながら慎重に足を進めました。

  ところどころに山藤が咲いており散策する人々の目を楽しませてくれますが、周りは鬱蒼たる林が続き、陽射しは道まで届きません。昼なを暗い道を汗を流しながらひたすら登ります。途中、右が2メートルの高い壁になったところ、洞穴があります。道が出来る前は、そこまでが山であった証明です。

  歩を進めていくと道幅はどんどん狭くなります。よそ見して道を踏み外せば、一気に数十メートル下まで落下する危険すらあります。

  現在、道を通すには機械でトンネルを掘るのですが、明治以前は機械も技術も無い時代、人間の力で切通しを掘る以外方法が無かったのです。

 10分ほど登と左右に分かれる道に出ます。熊野神社の看板がる左の杉林の中を進むと右手に鳥居が現れます。階段を上がると「熊野神社」の拝殿です。さらに上がると本殿があります。境内には横浜市指定名木古木の「イチョウ」と「スダジイ」の巨木があります。本殿から眼下を見下ろすと360度鬱蒼たる林、聞こえるのは風にそよぐ葉ずれの音と鳥の鳴き声だけ。まさに静寂の世界が広がっています。

 熊野神社は切通の開削に際し、源頼朝が鎌倉の鬼門に当たるこの地に、守護神として紀州の熊野三社大明神を勧請し、北条泰時が社殿を建立したと伝えられています。

湧き水と階段状の泥岩、雨水で浸食された路面のはなはだ歩きにくい区間を過ぎると、路はやや平坦になり、十二所へ向かう路と、朝比奈梅園へ向かう道が分岐する所の左側に小さな滝が流れ落ちています。狭い滝壺もある「三郎の滝」です。

 この滝は、源頼朝の御家人(家来)和田義盛の三男で、巴御前を母に持つという朝夷奈三郎義秀が太刀で一夜にして切り開いた道であるという伝説にちなんで付けられた滝名といわれています。   

 三郎の滝から少し進むと、川の向こう側の崖面に「大刀洗水」の表示板があります。夏草が伸びていて見え難く通り過ぎてしまいそうです。太刀洗水の名前の謂れは、御家人梶原景時が上総介平広常を広常の屋敷で闇討ち、その時切った血刀をこの滝の水で洗ったという伝説から付けられた名前です。この滝水は鎌倉五名水の一つでもあります。

 金沢街道へ出て信号を渡り、信号の根元に小さな地蔵様を右に曲がりますと十二所神社(じゅうにそうじんじゃ)です。神社は、石段を上がった先に石造りの鳥居と木造の社殿が佇んでいます。 

 次にご紹介するのは「鎌倉幕府の歴史」です。

  鎌倉幕府は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府です。

  第一の幕府は、大倉幕府(1180-1225)と言います.源頼朝は1180年(治承4)鎌倉に入ると大倉郷に御所を構え、ここに侍所、公文所、問注所(後に移転)などを整備。政治を執ったため、後に「大倉幕府」と呼ばれました。碑を中心に東御門、西御門と金沢街道に囲まれた地域に幕府があったと考えられます。
 第二の幕府は、宇都宮辻子幕府(1225-1236)です。実朝の死後、北条氏は京都より藤原頼経を将軍に迎えたが、政子の死により、北条泰時は心機一転のため、1225年(嘉禄1)に幕府を移転。辻子とは大路を結ぶ小道の意味で、幕府は若宮大路と小町大路に囲まれた宇都宮辻子の北側200mにあったと考えられます。
 第三の幕府は、若宮大路幕府(1236-1333)です。親王屋敷とも呼ばれ、4代将軍藤原頼経から9代将軍守邦親王まで存続。若宮大路幕府の位置については碑が示すように鶴岡八幡宮側の横大路に面していたという説と、位置は宇都宮辻子幕府と同じで出入口が若宮大路に面していたという説があります。

 「鎌倉幕府」と言われていますが。当時、武家政権を「幕府」と呼んでいたわけではありません。朝廷・公家は「関東」と呼び、武士は「鎌倉殿」、一般は「武家」と称していました。

  もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念です。武家政権を幕府と称したのは江戸時代後半、幕末になってからのことであり、鎌倉幕府という概念が登場したのは、1887年(明治20年)以降とされています。

 十二所のバス停で降りると左に曲がる道があります。そこを進むと「光蝕寺」(こうそくじ)です。山門を入ると正面に開祖である一遍上人の銅像があります。何故か分かりませんが、山門ではなく本堂を向いています。

 その先の地蔵堂には「塩嘗地蔵(しおなめじぞう)」が祀られています。

 昔、六浦から朝夷奈峠を越えて鎌倉へ塩売りに来た商人が、地蔵様に初穂として塩を供えたところ、帰路にはなくなっていた為、お地蔵様が「なめてしまわれた」という言い伝えから「塩嘗地蔵」と呼ばれるようになりました。これは、朝夷奈切通しが、塩の道と言われることを証明しています。 

 バス通りに戻りしばらくバス通りを進みますと左側に「茶道宗徧流不審庵」があります。宗徧流(そうへんりゅう)は、山田宗に始まる茶道の一派。茶道宗徧流不審庵は家元が居る財団法人です。

 山田宗は、茶道を好んだ。承保元年(1652)に千宗旦のもとで皆伝を得て、洛北鳴滝村三宝寺に庵を結んだ。このとき宗旦から贈られた四方釜にちなんで、大徳寺の翠厳から四方庵の額を受けている。宗旦は利休以来の不審庵、自らの隠居の今日庵の庵号を用いることを許しています。その後元禄10年(1697年)江戸郊外の本所に茶室を構えて多くの門人を集めた。中でも豪商の鳥居宗逸には今日庵、三河新城藩主の菅沼定実には四方庵の庵号を譲り、自らは不審庵を称しました。以来、山田家代々で小笠原家の茶堂を務め、4世宗也は宗徧流中興と称せられた。

 その後、7世宗寿没後宗有が8世を継承するまで40年間宗徧流は家元不在となったままでした。

 そこから僅かの距離におしゃれな門構えの「一条恵観山荘」があります。恵観は、後陽成天皇の第九皇子で、一条家の養子となり、関白・摂政を2度務めた江戸時代前期の公卿です。恵観の没後の別邸は、次男の冬基を祖とする醍醐家に受け継がれていましたが、1959年(昭和34年)、鎌倉に移築され、1987年(昭和62年)、現在地に移転されたのです。1964年(昭和39年)には国の重要文化財に指定された桂離宮に並ぶ貴重な遺構です。

 門の中は、御幸門、編笠門、一条恵観山荘が歴史を刻んでいます。そして滑川のせせらぎが、竹林が、モミジの小道が静寂の中に自然の美しさを見せています。下界の煩わしさを忘れ、人間に戻れる一時を過ごせます。

 青砥橋バス停を過ぎた先を左に入った所に竹の寺で有名な「報国寺」が見えてきます。立派な門構えを入って行くと苔と白砂が見事なコントラストを見せています。その先の階段を上がりますと本堂に出ます。本堂の右に竹の庭への入り口があります。

 竹の寺と呼ばれるだけって大変な数の孟宗竹に覆われた庭は素晴らしい。今日と嵯峨野の竹林にも勝るほどです。その先の切だったがけの斜面に足利家時(尊氏の祖父)など足利一族の墓があります。

 足利・上杉両氏の菩提寺として栄えました。孟宗竹の竹林が有名で竹の寺とも呼ばれています。

 報国寺は、臨済宗建長寺派の禅宗の寺院です。室町幕府将軍 足利義教への乱で敗れた足利持氏は永安寺で自刃、その長子である義久が自刃した悲劇のお寺です。かやぶきの鐘楼も残っています。

 山門を出て直ぐの金沢街道(六浦路)に沿った小道、「田楽辻子のみち」を歩きました。バス通りの喧騒とは違い静かな小道です。歩いているとこれまで見たことのない2本の梅、モミの大木と出会いました。このあたりから心配した雨が降り出します。小雨でしたので皆用意した折り畳みの傘を広げ歩き続けました。上杉朝宗碑の四つ角を右に曲がり金沢街道にでました。

 杉本寺を通り過ぎ鎌倉第二小学校の角を右に入り、坂を上り続けますと小さな橋を渡り、「古の花」の看板がある十字路を右に曲がります。正面に大きな鳥居が見えてきます。「鎌倉宮」です。

 主祭神の太東宮護良親王は後醍醐天皇の王子として誕生しました。天皇は当時の鎌倉幕府の専横な政治を憂い親王とともに元弘元年東学の挙兵を行いますが幕府の知るところとなり捕らえられ隠岐の島に流されます。残った親王は還俗して名を護良と改め天皇に代わって楠木正成らとともに吉野城や千早城に立て籠もり戦いますが、ついに敗れて囚われの身となり鎌倉の東光寺の石牢に幽されてしまいます。

 一方その戦いに呼応して立ち上がった地方の武士たち、中でも足利尊氏は六波羅探題を落とします。関東では新田義貞が鎌倉を攻め落とし、ついに幕府は北条一族とともに滅びます。がその際土牢に囚われていた親王も殺されてしまいます。28歳の若さで生涯を閉じたのです。その後、明治天皇は兼武の中興に尽くされ非業の死を遂げられた護良親王に思いをはせられ、現在の終焉の地、東光寺跡に神社を造営され鎌倉宮と名付けました。 

お宮を出たところから雨脚が強くなってきましたが、頑張って終着の鎌倉駅を目指します。「古の花」の看板があるところまで戻り左折します。直ぐに二股になった大きな生木に出会います。その下を潜り正面の石段を上り門を潜ると「荏柄天神」を境内です。

 荏柄天神は、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮と並んで日本三大天神社の一つに数えられています。菅原道真を祭る神社です。1104年、雷雲とともに天神が下り、その神意を尊び村人がこの地に社殿を建てたと伝えられています。源頼朝は鎌倉幕府開府に当たり鬼門の方向の守護社として造営したものです。境内の右には樹齢900年、鎌倉一の大銀杏があります。奥には漫画家水崑が、愛用した絵筆を納めるために建設した「かっぱ筆塚」があります。筆塚には154人の漫画家によるカッパの絵が描かれています。 

 生木まで戻って右に進みますと十字路の右に「東御門旧跡碑」があり、左に行きますと「大倉御所跡」「鎌倉御所跡」がありますが、今回は行かずに直進します。梅の大木がある十字路を右に曲がると60段の急な階段があります。登った先の右手に「白旗神社」さらに階段を昇ると「源頼朝」の墓です。

 源頼朝, 建久9(1199)12月御家人の稲毛重成の亡妻の供養のために,模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬しました。その落馬が原因で,翌年53歳で亡くなり、大倉法華堂(現在の白旗神社)に葬むられました。現在の墓は、江戸時代に島津氏によって建てられたもので、高さ186cmの五層の石塔です。建久6(1196)から頼朝が亡くなった正治元年(1199)までの3年間、鎌倉幕府の「吾妻鏡」から頼朝の死亡に関する記録が抜けていて、頼朝の死は謎に包まれていると言われています。

 この頃になりますと雨も小降りになりました。元気が出て最後の「鶴岡八幡宮」に向かいました。

  今回は、正面からではなく横浜国立大付属鎌倉小学校の方から「鶴岡八幡宮」の境内に入りました。源平の池の脇にある休憩所の売店でアイスクリームなどを買って食べながら暫くの間、池に遊ぶ鯉や,飛び交うハトなどを見て体の疲れを取りました。

  元気を取り戻し池の間を通り抜け、本殿に進みました。

 八幡宮に向かう階段の左にある大銀杏は、3代将軍源実朝を暗殺した公暁が隠れていたと言われ、「隠れ銀杏」とも呼ばれています。長い間、鎌倉の歴史を見守ってきて樹齢1千年ともいわれ、神奈川県の天然記念物に指定された古木は、2010年(平成22年)3月10日未明、雪混じりの強風によって倒伏しました。高さは推定30メートル、幹の太さは約7メートルあり、朱塗りの社殿と並ぶようにそびえ立つその姿は、多くの参拝者の記憶に残っています。移植された場所には、「がんばれ 大イチョウ」の立札が立てられています。元の場所からは、新しい芽が出て2メートル強に育っていました。
鶴岡八幡宮は、当宮は康平6年(1063)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。
その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに御神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地に遷し、 建久21191)に鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。 当宮への信仰を背景に鎌倉を中心として興った質実剛健の気風は、その後「武士道」に代表される日本人の精神性の基調となりました。

  現在の御本殿は、文政11年(1828)、江戸幕府11代将軍徳川家斉の造営による代表的な江戸建築で、 若宮とともに国の重要文化財に指定されています。 深い杜の緑と鮮やかな御社殿の朱色が調和する境内には源頼朝公、実朝公をお祀りする白旗神社をはじめとする境内社のほか、 静御前ゆかりの舞殿や段葛が八百年の長い歴史を伝えています。

  大きな鳥居をくぐり葉が青々と繁った桜並木の参道(段葛とも呼びます)を進み、一の鳥居の手前で参道を下って右側の「小町通り商店」の混雑する中を歩き「鎌倉駅」に到着しました。この時は、雨はすっかり止んでいました。

第3回  川和の歴史と宿跡を訪ねる

◆催行日   201852()

 ◆集 合   市営地下鉄・川和駅改札

                           4月18日が雨で延期した散策です。数日前の天気予報は雨で心配しました。2日前、曇りに変り、快晴よりも歩きやすい天   

       気となりました。GW中でしたが35名が参加し盛況でした。

 ◆散策コース 川和町 ⇒瑞雲寺⇒川和宿跡⇒八幡神社⇒天宗寺⇒無患子の木⇒菜花 ⇒ ヨコハマダケ碑 ⇒ 妙蓮寺 ⇒ 中山邸 

       ⇒ 川和遊水地 ⇒ 川和

 今回の散策コースは、3回目となります。

 1回目は、2013年7月で北側の川和宿を中心に、2回目は11月で南側のヨコハマダケ、妙蓮寺を中心に歩きました。目的は、都筑区25周年記念に発行します「図説 都筑の歴史」の刊行プレイベントでした。このことは、第3回ミーティング情報で紹介しておりますのでご覧ください。

 川和駅を出てまず訪れたのが「瑞雲寺」です。

 瑞雲寺は、桜が咲くころは、大きなソメイヨシノの美しさが外からも観賞できます。中には大きな2本の紅枝垂れが、見事な美しさを見せてくれます。この日は、既に初夏、花の美しさに替わって緑が寺中を覆い、初夏の暑さを和ませてくれました。

 医王院という山号がある山門を入ると右に筆塚があります。50年ほど前から筆供養が行われており、年末に使い古した筆に感謝をこめて、お焚き上げが行われています。

 今は小さなお寺ですが、昔は瑞雲寺前の一帯が領地であったそうで、元治元年(1864)6月には、境内で勧進大相撲が行われました。当時の横綱雲龍久吉、大関小野川喜三郎以下数百人が瑞雲寺に来て、地方の興業では稀にみる規模でした。

 瑞雲寺を出ますと手入れされていない荒地が広がっています。荒地には、月見草やセリ、夕化粧、カタバミ、ノゲシなど十数種類の野草が咲いていました。珍しい枯れた瓢箪も見られました。それらの野草を楽しみながら昔「川和の宿」と呼ばれた集落の後に入って行きました。

 現在は、何処にでもある住宅街ですが、かつては宿の真ん中を八王子街道が通り、立ち並ぶ民家は広い前庭をとっていたことからこれを使い市が開かられていました。市に行かなければ、正月の準備ができないとまでいわれるほどの賑わいを見せていました。 

旧八王子街道を進んでいきますと右側に城所さんの大きな屋敷があります。現在見えるのは、赤い瓦屋根ですが実はその下に茅葺き屋根が隠されています。

 この城所家(きどころけ)は、市で商売する商人のために布団を40組も準備したと伝えられています。

 城所家のすぐ側に川和宿の中央の鎮守である八坂神社・天王様があります。幕末の頃、官軍の江戸攻めによる戦乱から難を逃れるため、知人を通して大神輿を引き取り、ご神体として祀っています。境内にはニ十三夜塔と力比べをと呼ばれる24貫(90Kg)の力石があります。真夏に行われる天王様のお祭りには、花籠を先頭に山車(だし)が出て賑やかです。

 少し先に駐車場があります。「前田駐車場」の看板が掛かっています。

 そこは赤ひげ先生と呼ばれた前田収治という医者がいた場所です。先生は江戸時代末頃、都筑郡の大半を馬に乗って往診していました。金持ちの人々からはきちんと薬代をもらい、貧しい人からは「金はいらないよ、よくなってよかったなあ」と診察代をもらわなかったり、農作物で薬代にかえたり、暖かく人間味あふれる人でした。お酒が好きで、晩酌をすると、誤診してはいけないからと見てくれなかったそうです。

 道祖神を右に曲がり道なりに進んで行きます。途中の家々の庭に咲く真っ赤なバラや、藤色をしたムギセンノウ、真っ白なシャクヤクなどを見ながら進むと、正面に川和八幡神社の赤い鳥居が見えてきます。

 境内には移転前の川和富士にあった「浅間大神」の碑、日清・日露の天没者を慰霊する碑などがあります。昭和初期に伐採されるまでは、樹齢が1,000年以上で、高さが28間(約58m)、周囲が2丈4尺(約7m)もあり、当時関東一といわれた杉の大木がありましが、今はもうありません。

八幡神社の先には、「天宗寺」があります。

 境内には江戸時代初期に川和から青砥への渡し船の土手にあった、2体の地蔵のうちの1体があります。また、西国三十三観音の像や芭蕉48歳の時の句、元禄(1691)の句碑があります。

 神社を出て右に曲がり道なりに行きますと右手に1本の古木があります。名前を無患子(ムクロジ)といいます。ムクロジは昭和レトロの魔法瓶みたいなユニークな形をしているおもしろい木の実で、その中に格納された黒くて堅い種子羽根つきのおもり数珠厄除け無病息災の願いを込められて利用されてきました。また、水に浸すと泡立つ果皮薬用石鹸として役立ってきました。

 

 ムクロジから真直ぐ進んで市営地下鉄のガードを潜り抜けると川和の大地主信田家の土地が広がっています。春は、一面に菜の花が咲き誇るのですが、今年の菜の花畑は、半減してしまいました。一握りの悪い住民が菜の花を荒らしたためです。

  無患子を世の中に紹介したのは、郷土の植物学者であり俳人でもある松野重太郎ですが、「ヨコアハダケ」の発見者でもあります。

  横浜市には、約4,000種の植物が自生していますが、数少ない「横浜」の名がついた植物の一つが「ヨコハマダケ」です。このヨコハマダケは、明治の末に横浜市西区戸部町池の坂で発見されました。松野重太郎は、この竹が川岸や橋梁などに自生するメダゲと違うことを発見し、当時の東京帝国大学(現東京大学)の牧野冨太郎にみてもらい、新しい植物であることが分かりました。ヨコハマダケは、川和町駅近くの新しい住宅になっている旧松野家の庭に移植されています。
  

旧松野家から畑の中を右に左に曲がりながら歩くと古い土蔵があります。土蔵の脇を行ったところが、「妙蓮寺」です。

  山門の前に6体のお地蔵さんが並び、来訪者を迎えてくれます。山門を潜り抜けると正面に本堂が右手に箒を持った小僧が、その横に鐘楼があります。左手には、横浜市指定の名木のケヤキとイチョウの木があります。

 妙蓮寺は、都筑区唯一の日蓮宗の寺院で大晦日には30数年前から毎年恒例となっている、住職と弟子による「水行」が行われ、多くの人々が見学と除夜の鐘をつきに集まります。

  妙蓮寺を出て横浜上麻生道路を左に進むと、郵便局にぶつかります。この地は都筑郡役所、川和郵便局、川和警察署分署(当時は都田警察署)、川和登記所などの行政関係の建物、商店や旅館などが軒を連ね都筑郡の中心地として栄えました。

 しかし、明治41年の横浜線が川和町を通らずに中山町を通るようになり、行政の施設もそちらへ移っていき川和町は寂れ。今は昔の面影すら残されておりません。

 郵便局とコンビニの間の細い道を入り、突き当って左に進んだ山の上に「中山恒三郎」の屋敷があります。中山恒三郎は、菊の栽培を主としたほか、塩やしょう油、酒、たばこの販売。さらに製糸工場を運営する「太陽合資会社」を設立した豪商であります。

 残されている当時の蔵から菊栽培の歴史や商売に関する記録、製糸会社の経営帳簿や出勤簿、江戸時代の川和村に関する絵地図、歴代当主の日記、製糸工場で働いていた女工らの出勤簿など当時を知るための貴重な資料が発見されました。

 明治14(1881)に宮内庁に改良した菊苗12を献上したのが始まりで、その後83種を献上。その中に昭和天皇が愛された名花「男山」が含まれています。

 横浜上麻生道路を戻り川和クリニックの前を鶴見川に向かって進んで行きます。突き当った右に「遊水地管理事務所」があります。土手を上流に向かって歩くと「地下鉄の車両基地がありその地下が「遊水地」になっています。外から見ただけではどのように機能するのか分かりません。この管理事務所で機能説明を受けて行くと良いでしょう。

 鶴見川に沿って歩き前方に見えてきた地下鉄の陸橋を右に曲がった先に川和駅にぶつかります。本日の出発点であり、終点でもあります。

第2回  鴨居から桜咲く江川せせらぎ緑道を散策する

 ◆催行日   2018.4.4(水)

 ◆集 合   0930横浜線鴨居駅改札口

 ◆散策コース JR鴨居駅人道橋鶴見川南岸の桜並木川向橋川向稲荷神社江川せせらぎ緑道淡島神社イケヤ

  この日は、快晴で25度、夏を思わせるほどで温かいと言うより暑い位でした。

   会員達は、「途中で十分水分を取り熱中症に十分気を付けましょう」と鈴木会長の注意を聞き元気に鴨居駅を出発しました。

  鴨居駅は、明治41年に開通した時は、ありませんでした。住民は4Km離れた小机駅か3,5Km 離れた中山駅まで歩かないと鉄道が利用できません。大変な不便を抱えていました。

  昭和20年代後半、軍隊から復員して間もない青年たちが、「鴨居にも駅を作ろう」と提案したのをキッカケに建設運動に取り組みました。一度頓挫たものの何としてでも駅を作るという強い意思をもち、昭和33 年頃、鴨居駅設置委員会を組織します。鴨居駅設置委員会は、建設費の地元負担を決め、費用の捻出方法について協議を重ねました。遂に昭和37年春に起工式を行い、同年12 月に完成したのです・

 今年の桜の開花は、例年に比べて10日近く早かったので、大きな期待はしなかったものの5分くらいは残っているのではと期待したのです。

  鶴見川を右に曲がると、鶴見川沿いを彩る桜の中でも最高の場所である筈だった。だが、残念ながら10本近いソメイヨシノは、満開は終わり既に花弁は残されていませんでした。

  先週の「つづき五山巡り」は、100%満開を堪能しましたので、会員達は、口々に「今年は、先週で十分堪能した。今回はオマケさ」と慰めに言葉を交わしながら先を進みました。

  鶴見川の土手を彩るソメイヨシノは、70本あります。それらは、緑区制30 周年念事業の一環として2001 年にワシントンのポトマック河畔の里帰り桜を含めて移植されたものです。

 桜並木の右手には、数百本の梅の木が広がりっています。既に終わっていますが2月には紅白の花が咲き誇っていることでしょう。畑は綺麗に整地され夏野菜の準備が進められています。先を進むと紅白の花桃に、木々の新緑に、タンポポの花に楽しみながら川向橋を渡ります。

  道なりに10分ほど進みます。新川向橋の差路の信号、道なりに進めばすぐ右手に川向稲荷神社があります。手前の白モクレンが我々を迎えてくれました。

  川向稲荷神社は、川向村が成立した慶長年中(1601)に、小机住吉神社境内社の伏見稲荷社の分霊を勧請して、村の鎮守として創祀したとそうです

  初夏の様な暑さもあり少々疲労が出てきた頃なので水分補給休憩を取りました。ここまでにトイレが無かったのですが、神社にもありません。休息しようにも椅子のようなものもありません。皆は、神に祟られるかも知らないことを承知で僅かばかりの神社に階段に腰を掛けての小休止を取りました。

  精気を養い元気を取り戻し、本日の本命「江川せせらぎ緑道」を目指しました。

  鶴見川で桜の盛りが過ぎたことを自覚しましたが、「チューリップはきっと満開だ。ソメイヨシノの花びらとチューリップのコラボレーションは素晴らしいだろう」と胸をワクワクさせているうちに目的地に辿り着きました。

  橋の袂から見た瞬間でした。「満開の時にも劣らない素晴らしさだ」との歓声が上がりました。

  赤や黄色、白などのチューリップの花の周りを、桜色の花びらが埋め尽くしているのです。このチューリップは、200本余もあり地元の中学、高校生が育てたものです。清く済んだせせらぎにも花びらが流れ、残されたソメイヨシノの花が映し出されている。言葉では形容できないほどの美しさです。その美しさは、約500メートルは続いたでしょう。

  土手にはシャガやコウバナ、スイセンに菜の花が咲いていました。

  江川せせらぎ緑道を訪れた家族ずれも恋人同士も満開とは違った満足感が、心に広がっていたことと思います。

 後ろ髪を引かれる思いで江川せせらぎ緑道を後にして最後の桜の地淡島神社に足を進めました。

 淡島神社は、江戸後期から明治にかけて、女人信仰の神として崇敬され栄えました。何時の時代もそうなのでしょう。村の生活の束縛から離れ自由に羽ばたきたいという願いがそうさせたようです。

 淡島神社もまた花の盛は過ぎていました。それでも本殿の脇にある1本の紅枝垂れの花が残されていました。今日一番の桜でした。

2018年 第1回  つづき五山を巡り桜を楽しむ

 ◆催行日 3月28日(水)

 ◆集 合 AM9時30分市営地下鉄・中川駅前広場

     この日は、心が晴れ晴れするほどの快晴。参加者33名は、満開の桜に心を躍らせていました。

 ◆散策コース  中川駅山崎公園やさきの道八幡山公園矢先橋ささぶねの道都筑中央公園(ばじょう谷戸で休憩)境田貝塚茅ヶ崎杉山神社円形広場(センター南駅を潜る)茅ヶ崎城址公園大塚歳勝土遺跡センター北駅にて解散

 C班は円形広場からセンター南駅経由「みなきたウォーク」を通り歴史博物館経由→大塚歳勝土遺跡センター北駅で解散

 

つづきナビ倶楽部の散策のスタートは、毎年桜の花から始まります。

  昨年は、「長尾の里」で緑ヶ丘霊園の桜のトンネルを楽しみにしていったのですが、残念ながら1輪も咲いてなくガッカリいたしました。

 今年の横浜市の3月の気温は、最高23.3度、最低3.5度と寒暖の差が激しかったが、全体的にはぽかぽか陽気が多く、平均気温は過去最高となりました。その影響で花の開花は、桃に始まり桜までが1週間から10日早くなりました。

 神様は、昨年のことを哀れに思ってくださったのでしょうか、今年はまさに満開。

ソメイヨシノが、ヨコハマサクラが、オオシマサクラ・・・が大いに楽しませてくれました。 

 都筑五山とは、古くから言い伝えられた名称ではありません。港北ニュータウンの中央部の町づくりで、自然を生かした地形や地物の保全、歴史的資源の活用などを核としてテーマ設定及び推進のために名づけられました。

 開発以前は山と呼ばれていた「吾妻山」城山と呼ばれた「茅ヶ崎城址」ぬ加え「大塚歳勝土遺跡公園」「中川八幡山公園」「都筑中央公園」を山として加え5山としたのです。

 市営地下鉄・中川駅を出発して最初に向かったのは「山崎公園」です。都筑五山には入っていませんが、広場をぐるっと囲んだ数十本のソメイヨシノは見逃せません。

 住民の皆さんが作った花壇の花々を見ながら到着しますと、期待にたがわず全てが満開。公園全体が桜色に染まっていました。時間も早く、平日だったからでしょうか家族ずれでの賑わいを見せていませんでした。

  隣接する池では、釣り人達が腕前を競うように釣り糸を垂れていました。その釣り人を睥睨するようにゴイサギが悠然と見つめています。初夏を迎えますと池の周りは、気味が悪いほどオタマジャクシで真っ黒に染まります。ところが、夏を迎えてもカエルの姿を見ないのです。鳥に食べられてしまったのだろうと推測してます。

 柿木坂を下って、やさきの道を進んでゆくと八幡山公園です。

 山の頂にある5本の満開に咲いたソメイヨシノが、1本の大木になったようで誠に見事な眺めでした。この公園は、縄文式縄文・弥生時代及び平安時代の竪穴住居跡や石器・土器が発掘された遺跡公園です。発掘調査のあと埋め戻し、西側の半分を残して八幡山公園として整備されたものです。その証として4本の石のモニュメントが建てられています。この石柱と桜のコラボレーションもまた見事でした。

 「マムシに注意」の立札が立てられていますので、夏には注意してください。

 広場を一回りしてもと来た道を戻り左折しやさきの道を通って矢先橋に出ます。橋を渡って左に入すぐに右折、ここからささぶねの道に入ります。直進して蛍見橋を左折、ここから都築中央公園に入ります。

 都筑中央公園は、横浜の谷戸地形と植生を保全した、面積約19.6ha、都筑区最大の総合公園です。中央公園は、南北に境があり、その境は尾根になって、一部は境に沿って、公園になる前に植えられた杉が残っています。公園には5つの谷戸があり、ばじょうじ・宮・境田・清水・堰の谷戸からなりたっています。

 頂上に登る途中にヨコハマ桜、登り切りますと展望広場があり港北ニュータウン記念碑があります。その向うに満開のソメイヨシノ咲き誇っていました。また、ステージ人場を囲むように十数本のソメイヨシノが咲き、沢山の家族連れが花見に興じていました。

 林の中を宮谷戸の大池に下ります。その脇のレストハウスに寄り展示されている資料を見学しました。

 

 城址を出て北に向かうと早淵川の向こうに大塚歳勝土の山が正面に見えます。茅ヶ崎橋からは下流に勝田橋が見えます。突き当たって左に坂を上ると公園の広場の奥に出ます。上りきった正面にあるのが大塚遺跡と歳勝土遺跡です。

 最初に出会うのが歳勝土遺跡の墓墳群です。見学しながら進むと広々とした芝生が広がります。右手にはヨコハヒザクラが、左手にはソメイヨシノの大木が満開に花を見せていました。

  大塚遺跡は、鶴見川の支流早渕川を見下ろす、標高50m ほどの小高い丘の上にあります。延べ115 に及ぶ竪穴住居跡が発見されました。ともに弥生時代の大集落のあとですが、大塚遺跡に見られる大きな特徴が二つあります。その一つが、「環濠(かんごう)」と呼ばれ、ムラをとり囲んでいる深い溝があることです。環濠は小高い大地のふちに、ほぼ地形に沿ってひょうたんの形に掘りめぐらされています。

 4m、深さ2m ほど、600m にわたって掘られ、その外側には掘った土を積み上げて土塁が築かれています。また、土塁の上には本の柵を設けました。外との出人りには、橋を使いました。大塚遺跡のように、周りを溝でめぐらしたムラの形のことを「環濠集落」と呼びます。この情景は、遺跡の前にありますコンクリートでできた「大塚遺跡の縮尺」を見ると良くわかります。

 大塚遺跡では、85 軒の竪穴住居跡と10 棟の高床倉庫が発見されました。これらは、全てが同時に建てられたのではなく、3つの時期に分けて作られました。ムラでは、10 軒前後の竪穴住居と12 軒の高床倉庫とを一つのグループとして、それが3グループ集まって生活していました。100 人以上の人々が、ムラ長(おさ)を中心に生活に必要な仕事をしていました。米の脱穀、土器づくり、機織り、竪穴住居作り、そして、お墓作りもありました。

 大塚遺跡のもう一つの特徴、それはムラの外に大きなお墓があることです。このお墓を「方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)」と呼びます。一辺が10m ぐらいの正方形を溝で囲み、その内側に低く土を盛り上げて、その中心に亡くなった人を埋葬するもので、25 個が見つかっています。大塚遺跡と歳勝土遺跡のように、集落と墓地が一体となって作られている遺跡は大変珍しく、昭和61 (1986)国の史跡に指定されました。

 

民家園は、江戸時代の一時期、村方三役の名主や組頭を務めていました旧・長澤家住宅を移設したものです。

 建築年代は、新しい形式を取り入れられているものの、柱の一部にチョウナ仕上が見られること、土間境の柱が大黒柱になっていないことなどの古い形式を残しているため、横浜に残っている民家の中では、かなり古いものであることが分かります。民家園では「手打ちそばを食べよう」「いろりばたおはなし会」など季節に合わせた数々のイベントが行われています。

 その民家園の縁側から正面を見ると見事に咲き誇ったソメイヨシンがあります。昼食が近くなったからでしょう。ブルーシートを広げた親子ずれが何組もお弁当を広げ楽しそうでした。民家園を後にセンター北を目指しました。